http://www.uko-doso.net/
                                                
 石川県立羽咋高等学校同窓会           
   Hakui high school alumni association.
             
 
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        名物会員に紹介された方は次の紹介者を選んで指名して下さい。



   諏訪綾子
先生は本部総会7月26日にて講演をしていただきます。 

          演題は 「生まれ育った羽咋から私が学んだこと」 
乞うご期待!

    
その9  今回のご登場は今話題のフードクリエーション主宰の

  アーテイスト諏訪綾子
(高校47回生)先生です。

                                                                               
 
     諏訪綾子先生は1976年石川県羽咋市に生まれ、羽咋高校を卒業後 (羽咋高校47回生)、

    金沢美術工芸大学商業デザイン科を卒業され、2006 年よりfood creationの活動を開始する。

      2008年に金沢21 世紀美術館で、初の個展「食欲のデザイン展 感覚であじわう感情のテイスト」を開催。

    同時期に伊勢丹新宿本店の食品フロアで同コンセプトのパフォーマンスを実施し、食とアートの各領域

    から高い評価を得る。その後、企業との協業や、食品開発など多くのプロジェクトに携わる。

     また現在までにベルリン・パリ・バルセロナ・シンガポール・香港・台北・福岡・東京など、国内外で

    パフォーマンス 、ゲリラレストランを開催。

      2014年4月から2015年3月には、金沢21世紀美術館の開館10周年記念企画として、 東京大学総合
 
    研究博物館とともに展覧会「好奇心のあじわい 好奇心のミュージアム」を開催。

      20 14年10月には美術館の展示室で、15年3月北陸新幹線開業日には金沢 近江町市場で「ゲリラレスト

    ラン」を行う。

     人間の本能的な欲望や好奇心、進化をテーマにした食の表現を行い、活動を通じて美食でも、グルメ

    でもない、栄養源でもない「新たな食の価値」を探求、提案しつづけている。




     
倉部先輩は本部総会7月28日にて講演をしていただきます。 演題は 「我がまさかの体験と発想」 乞うご期待!

    
その8  今回のご登場は我らが羽高関東同窓会相談役の大御所倉部行雄先輩です。
                張り切ってどうぞ・・・・。

     
羽咋高校関東同窓会相談役  倉部行雄物語 (中学18回生)    
                                   く ら べ     ゆ き お

 
       昭和3年、羽咋市島出町の羽咋で最初の洗濯屋に生まれる。
       小さい頃から店の手伝いをし、昭和10年代はみんな貧乏で洗濯代が払えず、集金には苦労をしたそうです。
       この頃の経験が後の通商産業省(現経済産業省)の時代には中小企業を担当し零細企業の厳しさがよくわかり
       仕事に没頭した。
        旧制羽咋中学(現羽咋高校)から四高を経て
東京大学法学部へと進み、通商産業省へ入る。
       1960年代の通産省自動車課長補佐時代には、
自動車メーカーの合併や提携に翻弄する。
        
当時の日本の自動車産業はまだまだ競争力は弱く、アメリカが貿易自由化を要望する中、日本の自動車産業の
       育成が先と、日産とプリンスの合併や、トヨタとダイハツの提携を中介したりして業界の育成に
力を入れた。

         
1966年に徳島県商工労働部長に就任する。
        
阿波踊りを徳島県の観光の目玉として売り出す等斬新でユニークな振興策を打ち出した。
       今の阿波踊りをここまで全国展開したのは倉部氏の手腕によるところが大きい。
       当の阿波踊りはプロ級の腕前であるのは当然であるが、当時は職員から恥ずかしいので鍵を掛けて習い一生懸命
       に練習したそうです。
       お陰で東京、大阪へ行っては新聞記者をあつめて浴衣とねじり鉢巻きで自ら踊って披露して、みんなにアピールした
       そうです。
       後に
名古屋通算局長、防衛庁装備局長を歴任し1980年(昭和55年)に退官する。

        退官後は
中小企業事業団理事長、財団法人通商産業調査会理事長を経て共栄大学へ客員教授として
       迎えられ、学生にはこれからは情報の時代になるから、データーをしっかり記録し、いつでも使える様にしておくこと
       が大切だと説いている。
       自分の貴重な経験を若い世代へしっかり伝えていかねばならないとは、倉部氏の持論である。
       
        現在は
大工育成塾講師、日本エッセイスト・クラブ賞審査委員を務めている。
       氏の著書には「まさか・・・の発想法」、「スキ間思考法」、「レトロからの発送」、(以上PHP研究所)、
       「昭和ヒトケタおやじの青春」、「しかしを2度いう」、「すき間と日本人」、(以上経済産業調査会)など他数あります。
       倉部氏は関東同窓会の相談役として関東同窓会:現役の役員大御所として牽引している。

       イヤーもの凄い人ですね、今の日本経済を作り上げてきたそんな風にさえ感じてしまいます。お疲れ様でした。
      倉部行雄先輩のますますのご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

        内容は一部北國新聞(2004年6月17日)に掲載された加能人国記より抜粋しました。 (HP管理人)




   その7  今回のご登場は我らが羽高同窓会本部の新会長の坂室正昭先輩です。
        張り切ってどうぞ・・・・。

    羽咋高校同窓会本部新会長  坂室正昭物語 (高校12回生)        
                          さ か む ろ   ま さ あ き

      昭和17年3月、旧志雄町敷波(現宝達志水町)に電器屋の長男として生まれる。
    中学時代から放送クラブに所属し、話術と電気に興味を持つ。
    羽咋高校に入学するや引き続いて放送クラブに入部し、クラブの部長として取り仕切り、アナウンスや放送設備の調整
   
に腕をふるい自信を付ける。
    この頃に「これからの世の中は電気が中心となる」と確信し、我が進路を「電気技術」と決断する。

      迷わず上京し、東京電子技術専門学校へ入校することになる。
    卒業後、金沢の日立家電(株)へ入社し2年間修行したのち家業の父の小さな田舎の電器屋の後を引き継ぐ。
      電気工事業に本腰を入れ、昭和42年(1967年)に坂室電機(株)を設立し、社長に就任、口能登に根を張り、
    成長路線をひた走る。
     電気設備工事・冷暖房設備工事の設計施工を得意とし、時代の好況の波に乗り、羽咋高校時代の確信を地で行くことに
    なって急成長を遂げる。本社を宝達志水町柳瀬地内(国道249号線沿い)に新築移転し、現在の基礎を作る。
    孝子夫人(高校16回生・旧姓細川)との間に2男1女を授かり、いずれも電気関係の仕事に就いている。

      50才の若さで旧志雄町の商工会会長に抜擢され、地元の商店街の活性化に力を振るう。
    現在は平成の大合併により、宝達志水町の商工会副会長として手腕を振るっている。
    又、羽咋ロータリークラブに所属し、ガバナー補佐でボランティア活動や自己を研鑽している。
    変わったところでは、七尾裁判所調停委員として民事のもめ事の仲裁・調停に力を入れて10年になり今現在も現役として
    頑張っています。
      さらに、石川県日韓親善協会副会長として、40年の長きに亘り、日韓親善に力を注いでいる。

     仕事関係では、石川県の電気工事組合羽咋支部長を歴任し業界を取りまとめている。 
    教育関係では、町立志雄中学校PTA会長としてお世話をし、県立羽咋高校ではPTA副会長として会長を補佐し、本部同窓
    会では評議員を歴任し現在に至る。

     今回、7月24日の本部総会に於いて過去の経験がかわれ、羽咋高校第10代同窓会会長に満場一致で推挙されて就
    任 し、直属の副会長6名を配置して万全の体制で業務に当たっています。これからが楽しみです。
    趣味は意外にも、果樹の栽培や野菜の栽培であり、専用農園を持って土日は汗をかいている。泥臭い趣味だがそのような
    様子はみじんも見せず、驚きである。腕はプロ級であることは言うまでもない。
    是非一度農園へお越し頂いて、りんご、なし、葡萄(ルビーロマンもあります)に、もも、かき、くりとないものはないくらいです。
    ご賞味下さい。お待ちしています。
    他にゴルフを少しとお酒はお付き合い程度にたしなみます。
    この様なわたくしですが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    坂室正昭新会長のご活躍を祈って、改めて健康に留意され益々のご健闘をお祈り致します。

                                                        平成23年9月10日 前多永憲 記



   その6  今回のご登場は我らが羽高同窓会金沢支部の重鎮で副会長の潟邉武好先輩です。
        張り切ってどうぞ・・・・。

    羽咋高校同窓会金沢支部  潟邉武好物語 (高校13回生)       
                        か た べ  た け よ  し

    昭和17年4月、羽咋市(旧鹿島路村)で4男5女の末っ子として生まれ、鹿島路小学校から鹿西中学校を経て昭和33年
   4月羽咋高校へ入学する。
   
  羽咋高校時代 
    入学直後、相撲部から一週間にわたり猛烈な勧誘を受けるも、父親に反対され、中学時代からやっていた柔道部へ入部
   する。村田拓生(11回生)先輩にみっちり1年間しごかれ、2年生でレギュラーとなり3年生ではキャプテンを努めるも大会では
   準優勝ばかりで悔しい思いをする。
    応援団副団長として兼六園球場で高校相撲金沢大会の応援を行うも豪雨の為順延となり、2日目は応援団だけの寂しい
   応援となる。友人に勧められ演劇部員として高校演劇大会に初めて出場し解説の先生に演技を褒められる。
    3年生の後期に生徒会長に立候補、無投票で当選し、運動会で校旗を胸にグランドを一周したことや文化祭開催の思い出
   は一生忘れられない思い出であり、財産となった。

  石川県警察学校へ
     当時3人に1人は大学へ進学したが百姓の9番目ではままならず、橋本俊一先輩(10回生)の「かたべお前は警察の大学
   へ行け」と励まされたが、同級生の伊藤護、杉江外茂江、山本貴司と共に石川県警察学校初等科第21期生として入
   学し、波乱の警察官生活が始まった。

  40年間の警察官時代
     石川県警の柔道を背負わんと警察官になったものの、柔道特練員は強者ばかりで「俺の進む道は柔道にあらず」と決断し、
   方向転換を余儀なくされた。21才の若さで金沢東署の盗犯刑事に登用され、刑事警察の道を歩むこととなる。
     初めて捕まえた窃盗犯は女性で、先輩刑事から笑われ失笑する。
    それでもオリンピックの開会式の日に金沢市内の質屋で盗品を発見し、九州の泥棒村からの出稼ぎ大窃盗団検挙の大手
   柄をあげる。その後、昭和39年警察大学校本科第45期生として入学し、橋本先輩との約束を果たす。
    1年間の成績優秀なせいで? 警察庁捜査第一課に3年間の出向を命ぜられ、妻子と東京暮らしが始まり第一期地獄の
   時代が始まる。帰県し、昭和60年警視に昇進、金沢中警察署刑事官となるも6件の捜査本部設置事件を抱え第二期地獄
   の時代となった。
     羽咋高校OBで3人が金沢中警察署署長に就任。
    金沢中警察署署長には岡本武夫先輩(27代目・3回生)、私、潟邉武好(38代目・13回生)、後に土田正人(45代目・20
   回生)君がいる。2年間の金沢中署長時代は、29回にわたる連続放火事件に追いまくられ、2年目にして息詰まる戦いの末
   ついに犯人を追いつめて逮捕し、平成13年3月、58才で悔いのない警察官生活を閉じた。

  第二の人生へ
    県警察官退職後は、野々市町の警備会社にお世話になり、30人の仲間と共に朝7時から頑張って早11年になります。
    余暇は、下手なゴルフを毎日50球打ち込み、コースへは周1回のペースで通い、妻と孫とのドライブ旅行が楽しみです。
    子供の頃からなりたかった「浪曲師の夢」を抱いて、「長編歌謡浪曲」を唸り、まだまだ元気一杯ですが、13回生の同窓会
   のお世話を毎年やりたいと思っている今日この頃です。
    13回生の仲間には、地元小倉建設(株)の小倉淳社長、元羽咋高校長の丸田恒彦、元石川県健康福祉部長の浜名久司、
   元石川県警の刑事部長の伊藤護、ライオンパワー(株)会長の高瀬政明、元金沢医科大学病院事務長の山下士郎など
   がいる。

   何とも素晴らしい経歴と趣味ですね、お疲れ様でした。今後の益々のご健康とご活躍をお祈り致します。 

                                                           平成23年8月25日 本人 記


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  その5  今回のご登場は我らが母校羽咋高校OBで芸能生活50周年の新川二朗先輩です。
  今までにリリースしたシングル盤の一覧です。右端の矢印を押して下さい。    

  
  新川二朗 本部同窓会総会 講演開催! 7月24日()11時
         演題  「芸能生活50周年・・・」   特別講演の様子はこちらです。
          芸能生活50周年記念 新川二朗物語    
                                                       新曲 「オホーツク岬」のジャケットより

     昭和37年12月「君を慕いて」で歌手デビューし、「東京の灯よいつまでも」が大ヒット、NHK紅白歌合戦に出場した羽咋
    高校OBである新川二朗さんが芸能生活50周年を記念して新曲「オホーツク岬」をリリースしました。
    新川二朗(本名・沢田幸雄)さんは旧志雄町荻市、現在の宝達志水町に生まれ、羽咋高校第10期生としてボクシング部に席
    を置いてスポーツマンとしてならし、卒業後金沢ヘルスセンターに専属歌手として所属し人生のスタートを切りました。
    持ち前の高音の魅力を聞きつけた歌手の村田英雄さんに見初められ一人東京へと旅立ったのであります。
      新栄プロダクションの西川社長宅に2年間住み込んで、その間作曲家佐伯としを氏に師事し、苦労のかいあって、昭和37年
     「君を慕いて」でキンク゜レコードから歌手デビューし、東京オリンピックが開催された1964年に名曲「東京の灯よいつまでも」
    が大ヒットし、その年念願の第15回NHK紅白歌合戦に出場して名声をはせました。
     その後も「指切りの街」、「望郷」、「真っ赤な地平線」、「俺の日本海」最近では「ふるさとへ」等シングル盤だけでも60曲を超
    し今回芸能生活50周年を記念して、坂下桂作詞・作曲、前田俊明編曲による「オホーツク岬」を平成23年1月23日にリリース
    しました。今年の7月24日には羽咋市の休暇村「能登半島」において羽咋高校本部同窓会・講演会で氏の歌手生活50年
    を記念してご講演をして頂く事に
決まっております。もちろん新曲や懐かしの名曲もご披露されることと思います。
    どうぞOBの皆さん同期生の皆さんいらして下さい。
     これからの新川二朗先輩の益々のご活躍をお祈りします。おめでとう御座いました。
     以下に懐かしのメロデイーと新曲が聴けます。曲名をクリックしてお聞き下さい。

    デビュー曲  君を慕いて   新川二朗先輩の懐かしい写真とデビュー曲が聴けます。
    ヒット曲   東京の灯よいつまでも  
東京オリンピックの思い出がよみ帰ります。      カラオケはこちら。
    名 曲  
   ふるさとへ  懐かしい故郷羽咋の風景が観れます。作詞は1年先輩の杉紀彦氏。 カラオケはこちら。
     新 曲    オホーツク岬  素晴らしいオホーツクの景色が観れます。                 カラオケはこちら。
  日本海トリオ曲 おれの日本海 杉紀彦作詞、聖川勇作曲、新川二朗歌の日本海トリオ。



   その4 今回のご登場は我らが羽高関西同窓会で超有名な北極星産業(株)の北橋社長こと北橋茂登志先輩です。
       張り切ってどうぞ・・・・。

    石川県立羽咋高等学校関西同窓会  北橋茂登志物語 (高校6回生)      

     昭和29年3月羽咋高校(6回生)を卒業するや東京上野精養軒、日活国際ホテル、レストラン紅花等で
    フランス料理を修業、「北極星」で料理長を努め昭和41年父の後を継ぎ北極星産業(株)二代目社長に就任する。
     前身は父茂男氏が操業した「パン屋の食堂」、ここで皆様よくご存じの「オムライス」や「ホルモン焼き」を生み
    だし、名付け親となったのは父茂男氏である。一貫して庶民の洋食屋を目指した父の後を継ぎ二代目は「オムライス」
    専門店を次々と開店し、その数数拾店舗。大阪では知らない人はいないと言われる超有名人である。

     
昭和9年の繁盛期にはグループで1日の客数35.000人、店員550人を数え、今のファミリーレストランの
    走りであった。
    「北極星」の名付け親は金沢市出身の政治家永井柳太郎氏である。生活の羅針盤となる店作りや洋食の普及に努
    めてきた。
    北橋社長は世界中のレストランの経営者やシェフ等でつくる食通の会、ラシェンヌ・ディロティスール(本部パリ)の
    会員である。
     日本にも約300人の会員がいるという、飲食業・喫茶業それぞれの生活衛生同業組合や大阪レストラン協会、
    大阪食研等の役員等は数え切れない程多忙。

     
北橋さんは又「小さな親切運動」に協賛し、50年以上も前から「少年補導協会」の活動に携わっている。
    一貫して次のようにおっしゃっています。「ミナミの街を誰よりも愛する私達は、この街から「薬物」、「暴力」、
    「有害環境」を排除することは、少年の為だけでなく、私達の生活、生命を守ることにも繋がると考えて、活動して
    参りました。
    その地道な活動が地域社会に受け入れられ、大きな成果をあげています。
    「少年を守る大会」ではいち早く「愛の一声運動」を提唱し「朝の挨拶は人より先に」をこれを実践するだけで世の中
    は変わるが信条、「出来る親切、みんなでしよう、それが、社会の習慣になるように」がスローガン。
     道頓堀川にかかる戒橋の南端に「少年を守るミナミの鐘」が昭和55年に建立され、午後10時になると「早く家に
    帰りましょう」と知らせてくれます。
    少年が大好きで、オムライスも大好きな少年を守る運動に北橋さんを駆り立てたのに違い有りません。

     
レストランを経営する上で売れ筋商品をつくって、それが売り上げの8割位を占めることがベスト、又意外
    性、話題性、お客様が驚いてくれて喜んでくださるものを作ることも必要とおっしゃる。
    現に、
3800円の伊勢エビのオムライスを出し、雑誌やテレビで報道され北極星のオムライスは一躍有名になり
    ました。
      御堂筋にある南御堂に「毎日毎日が人生の大晦日」というのが書いてありました。
    北橋さんは好きな時に好きなものを食べてできるうちに好きなことをしてストレスの無い人生こそ、よりよい料理が楽し
    く作れるエネルギーであると北橋さんの信条である。
     北橋茂登志さんのご健康とますますのご活躍を祈って止みません。 
(産経新聞他より抜粋しました。)  

    
7月25日(日)午前11時より羽咋高校同窓会総会にて北橋茂登志さんの講演とオムライス実演
    が行われ約100名のOBが熱心に魅入りました。有り難う御座いました。 
   




   その3  今回のご登場は我らが羽高関東同窓会会長で秀逸な経歴の持ち主の里見先生こと里見忠篤先輩です。
          張り切って行きましょう・・・・。
    石川県立羽咋高等学校関東同窓会 会長 里見忠篤物語 (高校8回生)     

    昭和132羽咋市に(時造4男として)生まれる。18年間「野放しの山羊」の様に育つ。
   その後東京生活が始まり遅咲きの春が訪れた。

    野放し山羊の頃の話;小・中学校時代は算数・理科が解るだけでトップクラスの成績の様だった。
   特に物作り(創造)が好きで図画・工作には特殊な才能?が滲み出ていた様に思う。
   中1の時、糸川英夫博士に憧れペンシルロケットを自作した。竹製のボデイに自製の火薬を詰めた。
   一本目は成功したが、2本目は手の中で爆発した。すぐ上の兄が町の診療所に運んでくれた。
   当直の内科医がぶらぶらになった指を麻酔もせず縫い付けてくれた。
   その晩、父母が枕元で心配していた顔が今でも忘れられない。
   また自転車屋で集めた部品で変速装置付扇風機を作り母親をびっくりさせたこともあった。
   このことが大学卒業後株)本田技術研究所にて自動変速機(ホンダマチック)の発明に繋がって
   いることが本人だけが知る秘密。

    高校時代;高校入学と同時に山登りが好きになった。山好きな父親の遺伝子だろう。
   上野弘之先生に連れられいくつかの山を楽しんだ。特に印象深い山に木曽御岳山がある。
   昨年
71歳で木曽駒ケ岳を登頂した。山頂より御岳山を眺め、若き日を思い出していた。
   浜田先生、松岡先生、山下先生、末吉先生ら‥思い出のある先生は理数科の先生ばかりである(スミマセン)。

    大学時代;東京の大学(東京電機大学)に入学した。
   日本の
10大発明家丹羽保次郎先生(当時の学長)を何かで知ったことが入学の動機となった。
   大学の授業には飽き足らず、何となくニコライ学院(御茶ノ水)に入学した。
   今流行りのダブルスクールである。
   そこで当時の大学受験ラジオ講座講師の鬼頭いつ子先生(美人!)に出会ったことがきっかけとなり英語
   覚えることが楽しくなった。大学の授業よりも、ニコライ学院のクラスで結構楽しんでいた。
   外国人との対話も楽しめるようになり、その後の人生も開けてきた。

    社会人として就職先で本田宗一郎さんに出会ったことがこの上ない幸せなこと、
  
“私はHONDA R&Dで学んだ!”と外国でも胸を張って言っていた。
   大概の人に当てはまるが、
学びの果実は30歳前後に現われる。
   大変な努力と苦しみを味わったが、ホンダマチックなる本邦初のフルオートマチックミッション搭載車を
   完成させた。外国特許は全く使っていないホンダが四輪生産に乗り出すきっかけとなったことだろう。
   当時の業界雑誌
「実業の日本」で“Not inspiration but perspiration勘ではなく汗によって)”との副題付
   で
4人のエンジニアを紹介してくれた。
   「出会いを大切にすること」「自己努力を怠らないこと」誇れる宝物が持てることを若い人達に伝えたい。
  
大学に転職し30年間勤務した。(現在は東京電機大学名誉教授
   蛙の子はやはり蛙が一番似合い、教育の道が天職‥と田舎教師であった両親に感謝している。

    関東同窓会会長として;私は前会長の竹宮隆先生(筑波大学名誉教授)を尊敬している。
   “この人を私は支えたい‥”との気持ちが日に日に増幅してきて竹宮先生にお仕えさせて頂いた。
   今後の私は「人の気持ちがわかる老師」として若者達に接していきたい。
                                      平成22年5月9日 本人執筆

    注釈) 別冊実業の日本(1968),  世界特許を克服する日まで  ━ホンダ自動変速機開発記━
         "Not Inspiration, but Perspiration"(勘でなく汗によって) ━ それに若さが加わった感動篇

     里見先生、素晴らしいですね・・・・日本人の誇りですね・・・・あのホンダマチックの開発者ですか・・・・。有り難う・・・・。 

     本年11月3日には羽咋高校で里見先生の御講演が予定されています。ご期待下さい。



  その2  お次のご登場は我らが羽高同窓会関西支部長で多才な趣味の持ち主の孝司さんこと橋本孝司先輩です。
        張り切って行きましょう・・・・。
    石川県立羽咋高等学校同窓会 関西支部長 橋本孝司物語 (高校7回生)

      昭和11年7月羽咋市兵庫町に橋本家の次男として生まれる。
    羽咋高校に入学するや当時バスケット部キャプテンの今藤邦夫(羽咋市出身・羽高7回生)に経験を買われ、強烈な
    勧誘を受け、半ば強制的に同窓会会長の安達利之と共に入部させられる。
    以後インターハイ出場に向けて伝説の猛練習が始まる。

     石川県予選決勝戦では、橋本孝司は副キャプテンの司令塔として出場し、七尾高校に43対40で辛勝し、秋田県の
    インターハイに石川県代表として念願が叶って出場する。
    1回戦は佐賀県の前年度優勝県代表、唐津高校に56対51で競い勝ちし、2回戦で今大会の優勝チーム東京の武蔵高校
    に38対72で苦杯をなめる。
    特質すべきは、当時バスケット部の監督は大学生の橋本憲和であり、大会当日駆けつけてはくれたが、練習はほとんど
    部員達だけの独自路線であった。
    言うならば監督不在の状態でここまで頑張られたのは当時の5人のメンバー(橋本孝司・安達利之・今藤邦夫・
    佐々木信夫・盛岡政夫)の一致結束と熱い熱い想いに他ならない。快挙と言えよう。

      卒業後一時、金沢の縫製工場に勤務するが一大決心をし仕事を求めて大阪へ一人旅立つ。
    昭和32年に高槻市で消防士として採用され再出発する。
    持ち前の柔腰と粘りとまじめさで頭角を現し、市長部局へ出向する。4年間に企画財政部行政管理課長を初め課長職を
    歴任し、古すの消防部局へ戻り、高槻市消防長に上り詰める。
    定年後は高槻市シルバー人材センター理事長等を歴任し、平成12年3月退職する。

      趣味はこれまた、素晴らしいの一言である。囲碁は2段、卓球は歴10年のグループリーダー格、詩吟は吟道 賀堂流
    京都本部 長岡京吟詠会に所属し、「堂秀孝」の雅号を持つ五段の腕前である。
    京都府詩吟連盟の大会でも入賞の常連である。この他水泳歴25年、近郊の山歩きは月に2回は行くと言う。
    海外旅行は毎年の恒例となっている。平成18年10月より羽高同窓会の関西支部長として関西を一手にまとめている。

      何とも凄い経歴と趣味ですね、今後の益々のご活躍を願って止みません。 
                                         平成22年2月10日 (高7回生) 今藤邦夫 談・安達利之 記
     
     


   その1  トップバッターは我らが本部同窓会会長であっちこっちとお忙しい利ちゃんこと安達利之先輩です。
         張り切ってどうぞ・・・・。
    石川県立羽咋高等学校同窓会 第九代会長 安達利之物語 (高校7回生)
                                                
      昭和11年6月、旧志雄町子浦(現宝達志水町)に呉服屋の長男として生まれる。
    中学時代からバスケットボールに熱中し、羽咋高校時代には正選手としてクラブの中心的存在となり、インターハイ
    出場する。
    関西支部長の橋本孝司もその当時のメンバーの一人である。高校卒業後も国体選手として活躍する。

      卒業と同時に家業の呉服屋を継ぐべく、金沢へ修行の為、呉服屋へ丁稚奉公に出される。
    ここで彼の人としての心得と商売人としての根性が徹底的に叩き込まれる。
    修行の後、実家へ戻り、家業を継ぐ。

    新川二郎とは同郷の先輩として良き友である。新川がプロデビューするやその応援とバックアップに全力を注ぐ。
    お陰で「東京の灯よいつまでも」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に出場が決まり、プロ歌手としての地位が確定する。
    ようやく日頃の支援が認められ、ホッと一息つく。

    折しもスーパーマーケット全盛期、さっそくその手法を取り入れ一呉服店から衣料全般を扱う総合衣料販売店として
    出発する。さらに大型店に対抗する為、地元の専門小売り販売店をまとめて、サンプラザを立ち上げる。
    ここでも自分は表に出ず、裏方として徹底的に持ち上げる役目に徹する。
    やがて時代は進み、サンプラザも閉店の浮き目を味わう。事後処理に奔走し、完了する。

      婦人服専門店として、羽咋市へ出店を決意し、10年前に先行投資しておいた地へ、ウイングほんだ
    「アル・モード」
羽咋店として、新築オープンする。店内は女性家族に任せ、自分は外商と配達を専門とし、昔取った
    きねが役に立つ。
    又、小売りからスーパー、大型店まで経験した手腕を買われ、現在はウイングチェーンの指導講師として若手後継
    者の育成と教育を担当している。
    羽咋ロータリークラブの第19代会長として1000人の会員を集めてユニークな地区大会を挙行し絶賛をあびる。
    現在は羽咋高校同窓会第9代会長として3期目を迎え、組織改革・事業の見直し等その手腕を発揮している。
    羽咋高校7回生で人脈の広さともの腰の低さには定評がある。
    お酒は大好きで、話題に切れ間は無い
が、健康に注意されたし。
                                                    平成22年1月5日  前多永憲 記